広く浅く、ゆるーく。

気の向くまま、風の吹くまま。写真を撮ったり、つらつら書いたり。

『現代思想』10月号 討議 オピニオン/ファクトとどう向き合うのか ①

 

 

青土社から毎月出ている『現代思想』10月号から。

石戸諭さんと武田砂鉄さんの討議「オピニオン/ファクトとどう向き合うのか メディアとコンプライアンスの過去・現在・未来」。

 

 

現代思想 2019年10月号 特集=コンプライアンス社会

現代思想 2019年10月号 特集=コンプライアンス社会

 

 

 

冒頭全然関係の無いことでアレなのですが,すっかり硬い本を読まなくなったせいか,なかなか内容が頭に入ってこなくて。。。

この内容の是非はともかくとして,思ったことをつらつらと。

 

 

”失敗できない”社会

 今年の6月,吉本興業所属の芸人による「闇営業」問題が大きく報道されました。

連日のようにスポーツ紙やワイドショーなどで取り上げられていたので,記憶に新しいところだと思います。

 

toyokeizai.net

芸人による会見の中で嘘のコメントがあったこと,また,社長の会見がグダグダと,お騒がせな問題だったのですが。

 

 

石戸:

 今回の吉本の問題にしても,あの制裁の仕方とは何だったのかと思います。会社のリスク管理として,芸人の発言の場を封じたとされていますが,こうした対応はやはり疑問です。「コンプライアンス違反だ」と言えば発言の場を抑え込めると思ったのかもしれませんが,これは結構危ない問題を含んでいます。僕があのときすごく嫌だと思ったのは,一回「アウト!」となると社会復帰の場が本当になくなってしまうということです。

 見せしめのように,「会社が許可するまではテレビに出しませんよ」ではなく,ある程度ほとぼりが冷めた段階で,もう一度復帰できないのか,と。

武田:

 それはここ最近,あらゆる場で起こっていることですね。

石戸:

レッドカードを出されたら,一生復帰できない。こんなきつい社会はないですよね。「まだ反省が甘い」「こんなやつはテレビに出るべきではない」というのは感情として理解できることではあっても,それは自分の足元に跳ね返ってきたときにすごく息苦しい言説になります。

武田:

 二度と立ち上がれなくなるわけです。一生出てくるな,と突っ込むとき,自分が突っ込まれる光景は想像していないですよね。

 

「オピニオン/ファクトとどう向き合うのか メディアとコンプライアンスの過去・現在・未来」10-11.

 

 

 特に後半部に関して,なるほどねと思うわけです。

 

少し脇道にそれますが,ここ最近(肌感覚なので分かりませんが),異を唱えることが何となく難しくなってきていて,とりあえず大勢の流れに乗っておけば,自分が叩かることはないだろうという感じが日に日に強まっているような気がします。

 

特にTwitterなんかを見ていると怖いなあと思うのですが,自分と意見の合わない人を見つけると,「これでもか」と思うほどに罵詈雑言を浴びせている人を見かけます。

 

私自身,2010年からTwitterをやっているので覚えているのですが,当時はこれといって変に絡んでくる人もいませんでしたし,今みたいに大炎上することもなく,何なら現実の社会よりも平和な世界だったと記憶しています。

2ちゃんねるなどではあったのかもしれませんが・・・)

 

togetter.com

 

ところが,ここ数年ですっかり変わってしまったなと。

「余裕の無い社会になってしまった」と言えばそれまでなのでしょうが,気にくわない人,意見の違う人を見つけたら寄って集って袋だたき,なんてことは日常茶飯事。

とにかく相手が音を上げるまで攻撃しないと気が済まない,そんな人たちが一定数いるようで,あの頃の平和なTwitterはどこへ・・・という感じです。

 

そういう意味では,今回の吉本興業所属芸人による「闇営業」の問題は,格好の標的だったのでしょう。

芸人たちを擁護する声もあった一方で,それはまあ凄まじい言葉がニュースのコメント欄なんかにはずらりと並んでいました。

 

最近復帰した芸人さんもちらほら出てきたようですが,石戸さんが指摘しているように,「一発アウト」の状況って,この問題に限らず,結構多くなってきたのでは,と思います。

 

昔はそれほど問題にならなかったようなことが,今は口うるさく言われ,守らないととんでもないことになる。

その一つが,今回テーマになっている「コンプライアンス」だと思うんですよね。

 

コンプライアンス」というと,「法令遵守」と訳されることが多いですが,本討議冒頭でも取り上げられているように,どうもその意味にとどまらず使われる機会が多くなってきたような気がします。

 

自己防衛のための相手叩き

相手を叩く,バッシングというのは,自分を守るためのひとつの「手段」でもあるのかなと思うわけです。

 

「バズる」という言葉が誕生しましたが,一個人の発言が簡単に世の中へ拡散されるようになったことで,「自分が被害者にならないように」「何となく周りに合わせておこう」という風潮は間違いなく強くなったと思います。

 

だからこそ,一つ一つの発言にはより注意深くなり,周囲の動向をチェックして,当たり障りのない発言にとどめるなんていう経験は私も含めて良くある話なのではないでしょうか。

 

色々とリサーチしている過程で,うっかり自分の意見とは相容れないそれを見つけてしまったとき,大半の人は「まあいっか」と流してしまう一方,なりふり構わず食ってかかる層もそれなりに存在します。

 

意見の相違を受け入れ,建設的に議論するわけでもなく,ひとつやふたつ,相手に何か言ってやらないと気が収まらないという感じなのではないかなーと。

 

単に相手の発言が許せないということを超えて,自己を正当化するための一手段として「相手を叩く」「炎上させる」という方法もあるんだろうなあと。

 

「闇営業」の問題に関して言えば,何をもって「ほとぼりが冷めた」と判断するのか難しいところで,どのタイミングを採ったとしても,「早すぎる!」という批判の声は結局あるでしょうし,それなりの騒ぎになることは,避けられないと思います。

反社会勢力との接点があったというのも,この問題を考える上で,外せないポイントになると思います。

 

その一方で,「反省したか?」「もう良いんじゃない」と一言,当事者にそっと声を掛けてあげる人も居て良いんじゃないのかなあと。

 

「反社会勢力と関係をもっていた」それ自体,許されることではないというのが,おそらく現代社会の共通認識だと思います。

そこから一歩進んで,「反省が足りないからテレビに出てくるな!」と言うのか,「そろそろ戻っておいて」と手を差し伸べるのか,その差だと思います。

 

色々と事情はあるところかと思いますが,そんな風に思います。